「容姿ネタ」について考えるときに私の考えること

最近「容姿ネタ」にまつわる言説を見てもやることが多かったので、自分の考えを整理してみました。

といっても私は具体的な「容姿ネタ」については無知であり、ほとんど憶測で書いているので、おすすめの容姿ネタがあったら教えてください。

私の思い出

あなたは「つまらなそうな顔をしている」という理由で怒られたことがありますか?

私は小学校の頃に2度、中学校で1度の合わせて3度あります。

最初の1回、小学校4年生の時の担任は「つまらなそうな顔」とかでもなく「なんて顔をしているの」と叫んでいました。

その一言はNHK以外のテレビを見ない家庭で育ち『エンタの神様』のにしおかすみこの真似をして突然奇声を上げる男子を怪訝な目で見るなどしてクラスでなんとなく浮いていた当時の私をして見事! いじめの対象へと転生させました。

私の顔についての否定的な言及が教師によって解禁され、「こいつはいじめてもいい」という空気が涵養されたためでしょう。

ここで一つの疑問が生まれます。

彼女たち*1はお笑い芸人のモノマネをして私の「容姿いじり」をしたのでしょうか?

私をいじめた小学生たちは小学生なりにワードを繰って「顔面土砂崩れ」などと言っていましたから、容姿についての言及で笑いを生み出す、いわゆる「容姿いじり」をしたかったのかもしれません。

しかし、教師たちによる私の容姿への糾弾はそんな悠長なものではなく、もっと切実な動機で行なわれていたように思います。

私の開いてんだか閉じてんだか分からない重たい一重瞼の目、それをさらに押し潰す頬の肉、ふてぶてしく垂れ下がった口角は、彼女が望む「安心・安全、みんながニコニコ楽しい教室」にはあってはならないものだったのです。

そうでなければ、おしゃべりをしていたわけでもなく、(教室の最前列の席に座っていたので)不快な顔面を他の生徒にお披露目していたわけでもない私を授業を中断してまで𠮟責する理由が思い当たりません。

 

「容姿ネタ」が根絶されたとしても……

EXITの兼近さんは「ワイドナショー」でお笑い芸人の容姿いじりを「サーカスのナイフ」に喩えたそうです。(番組を見てないので、Twitterの孫引きですが)

お笑い芸人による容姿への言及が、成功しているかどうかは措くとしても他者を笑わせるために装飾された煌びやかなナイフであるとすれば、私が向けられたのはさしずめ不審者を捉えるための「さすまただったのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、私の顔は「安心・安全、みんながニコニコ楽しい教室」からはなんとしてでも排除されなければいけないものだったのですから。

言わずもがなですが、私は「だから容姿ネタはいい。もっと盛んにやるべきだ」と主張したいわけではありません。

お笑い芸人は客の空気を敏感に察知するので、客の側に「容姿ネタは笑いにくい」という空気*2が完成すれば容姿についての言及は避けられるようになるでしょう。

「安心・安全、みんながニコニコ楽しいテレビ」「誰も傷つかないお笑い」のために容姿ネタが排除されつつあるのは確かです。

では、もしも「容姿ネタ」が根絶されたところで——学生時分の私のような思いをする人はいなくなるのでしょうか?

残念ながら、そのように楽観することはできません。

私が標的となった容姿への言及と、お笑い芸人による容姿への言及はそもそも違う動機によって行われているからです。

 

 日常に張り巡らされたルッキズム

さすまた」としての他者の容姿へのジャッジは、誰しも無関係ではありえません。

例えば「さっきのコンビニの店員態度悪かったな」「ウーバーの配達員愛想悪かったな」という素朴な感想は、自分が望む「安心・安全、みんながニコニコ楽しい社会」の侵犯者に対するミニさすまたです。

これが会社ぐるみで行われるとき、履歴書に証明写真の貼付を必須とするシステムに代表される「顔採用」へとつながっていきます。

「こんなに太っている人間は自己管理がなっていないに違いない」「こんなにふてぶてしい顔の人間は勤労態度も悪いに違いない」*3とかいって「安心・安全、みんながニコニコ楽しい会社」にはいてほしくない存在であると見なされるわけです。

「笑顔が一番」という一見道徳的に正しいと思われる価値観ですらルッキズムの賜物であると言っても言い過ぎではないでしょう。

「笑っていなくても笑っているように見える口元」を持って生まれた人間と「怒っていないのに怒っているように見える口元」を持って生まれた人間がいて、「笑顔が一番」という価値観のもとでは後者が迫害されるのです。

これがルッキズムでなくてなんでしょうか。

なぜ美容整形に「口角挙上術」(下がった口角を引き上げる方法)があるのかを考えてみても分かることです。

 

おわりに

ここからは私の想像ですが、現在「容姿ネタ」の担い手であるとされている芸人のなかにはかつて「さすまた」に捕らえられてきた(つまり、容姿が原因で共同体の安心・安全を脅かす存在であると見なされ、迫害されてきた)人が少なくないのではないでしょうか。

ある一面では彼ら・彼女らは紛れもなくルッキズムの被害者であるにもかかわらず「容姿ネタ」というルッキズムの体現者であると見なされている現状を思うにつけ、やるせない気持ちになります。*4

容姿が「悪い」という理由で排除されてきた人間が、お笑いというサーカスの舞台では「悪い」ことを(「笑える」という)「価値」に変換できたのだとしたら。

そして今、サーカスの舞台にも「悪い」ことについて言及することは(視聴者の安心・安全を脅かすから)「悪い」、というさすまたが介入しつつあるのだとしたら。*5

*1:私に対して「つまらなそうな顔をするな」と言った教師は全員女性でした。これは男性教師には差別心がないということを意味しません。単に女性である私の容姿に男性教師が言及した場合セクハラで訴えられるおそれがあるからでしょう。

*2:私自身この「空気」のなかにいるからこそ、この文章を書いています。

*3:お笑いというサーカスの舞台ですら規制される容姿への言及は、確かに日常生活においても規制されていくでしょう(そうなってくれないと困る)。しかし、ここで書いたようにかつて容姿への言及であったものは「道徳的な価値」へと変形して延命するでしょう。「目がぱっちり二重でイイネ」が「聡明で誠実そうな目だ」とか。「健康な肉体だから健康な精神が宿っているんだろう」とか。ルッキズムの廃絶について私が楽観的になれない理由がこれです。

*4:彼らはある差別構造の被差別者であるから差別を行うことについて免罪されるべきだという主張ではありません。

*5:たくさんの脚注を駆使して「容姿ネタ」によっぽど思い入れがある人みたいな文章を書いてしまいましたが、単に「容姿ネタ」についての議論を見ていると「私の思い出」に書いたような忌まわしい記憶がよみがえるから嫌だなあ。という理由でこの文章を書いてきたので、具体的な「容姿ネタ」芸人さんの顔が浮かんでいるわけではありません。アインシュタインの稲田さんくらい? 3時のヒロインが容姿ネタやめるっていうのはTwitterで見ました。シシガシラのネタはタイムラインの評判がいいからYouTubeでいくつか見て面白かった。ここで名前を挙げたような芸人さんが「容姿ネタ」を取り上げられたからといってお笑いでやっていけなくなるなんて全く思わない。ただ、「イケメン」「美女」がキャラになるのに「ブサイク」がキャラにならないっていうのは「顔採用」に限りなく近い論理だなと思うし、容姿偏重社会のしわ寄せが(容姿偏重社会における)弱者にいってるなと思う。